
桜の樹々の影が射し込み、その触手で私の内の暮色をざわめかせた。暮色蒼然のなか仮初めの安穏を得るかに思えていた私は、忽ち不穏に捕らえられ、影から逃れようと帰途の歩みを速めたが、桜並木を過ぎた後も影は消えやらず、私の内で凝り定着してしまったようだった。早足に疲れ足を止めて視線を上げると、暮色は愈々深まり、建物の輪郭は宵闇に滲み消えようとしていた。
影に射し込まれた挙げ句に感情を乱されるとは、空(から)とは斯くも厳格に静謐を求めるものか、空の似像だけでも拡げられるのは何時のことかと私は嘆息した。

──……は死んだ、などという人達の殆どは信用できないわね。極みの涯での凄惨な立ち回りの後で自らの手で殺さざるを得なくなった時に、初めてそういう言葉が内実を伴って口から零れてくるものでしょう。極みへ赴く中途で怠惰に耽り、惰眠を貪った挙げ句に悪態を吐くなんて醜悪の極みだわ。
──君は極みの涯で何を見ようと思っているんだ。
──たった一つの音、和音でもなく旋律でもない、一つだけの音とその跡に現れる何か。全てがそのなかに尽された一つの音がぽーんと放たれ、全ての調和が成されて、やがて音は消え入り、その跡に今度こそのたった一つの調和だけが残される、そんなところ。言葉は難しいわね。
──その音を何処から拾ってくるんだい。その音はどのように現れるんだい。
──あらゆる音を弾いて、あらゆる音に耳を澄ませて、でもそれは外面的にばかりじゃない、私のなかで音を鳴らし、私のなかの音に耳を澄ませるの、黙って、黙って、静かに、静かに。そうすればいつかは、ぽろっ、と。楽天的に過ぎるかしら。でも、その音は、その調和は既に成されているような気がするの。まだ誰にも聞かれず、だれにも気付かれていないだけで。

大気を震わすには幽かな吐息だけで充分なのだ。言葉を尽くした最後の一言が消え入った後の、疲労とも喜悦とも知れぬ吐息。
水面を揺らすにはたった一滴の滴で充分なのだ。生の源泉が其処で尽きた、小さくとも重く光を湛えた一滴。
しかし尽すことの何と凄惨なことか。
背を丸めて膝を抱いている彼女の姿が見えた。その姿は何かを己の内に抱き容れようとしているかに見えた。円く治まったその姿は安穏と和らいでいるようにも見えたが、どこか凄艶な印象を払い切れなかった。彼女は内に抱き容れた何かに自分を注ぎ尽くそうとしているようで、精気を尽し出されようとして身体は肉体感に乏しくなっていき、表情は薄く乾いたものになっていった。何かに自分を尽したのか、彼女の身体が緊張で一時震えたが、その後徐々に和らいでいき、和らぎの極点で危うい清閑に鎮まった。
最早私は彼女の内を訪(おとな)うことはおろか触れることさえできず、私には凄惨に過ぎるその鎮まりを前にして、窺い知れぬ清閑に畏れ佇むばかりだった。彼女は自分を、音を尽したのだろうか。彼女の内でどのような音が聞こえているのか、音を尽した後の静寂が満ちているのか、私は彼女に尋ねたかったが、私の言葉は尽す程に豊かである筈もなく、言葉、形象、心象でばかり捉えるしかない己の奇形を託った。私は彼女を遠く前にして言葉にならぬ呟きを吐いたが、それは彼女に対する怨情(えんじょう)であり、嫉妬であり、自分の臆病に対する弁解でもあった。
[昨日の読書]
マイスター・エックハルト 『ラテン語説教集』
[昨日の音楽]
ルー・リード 『トランスフォーマー』(1972)


by yaginuma
霖雨に濡れる古の声